+--[11] 二度と乗らないと決めたもの--+

 結局私は外大生にはなれなかった。

 だが、受験勉強もせずにのらりくらりしていたのだからどうしようもない。
親にはずいぶんと迷惑をかけたが、それはそれでよかったのだと思う。
私は教職をあきらめたはずだったが、では中国へ留学してそれから何を生業とするのか、と考えた時に、
中国人に日本語を教える日本語教師になりたい、と思った。

 しかし、学歴重視の社会の中で高卒生のままでは日本語教師になるための講習すら受講できなかった。
私は大学の通信課程に籍を置くことにした。

 その後バブルの波が日本を襲い、産業界は多忙を極めた。
私はひょんなことから親の仕事を手伝うこととなり、
「講義の後は○○でアルバイト」という一般的な学生生活を経験することのないまま日々を過ごしていた。

 そんな中、高校時代の同級生が中国旅行をしたいとコンタクトをとってきた。
私は彼女と一緒に年末年始を中国で過ごすことに決めた。

 その頃にはレートも下がってきており、鑑真号というフェリーも就航していた。
中国へ向かうバックパッカーの数も半端ではなくなってきていた。
私たちは鑑真号に乗って神戸から上海へ向かうことにした。

 大きなリュックを背負い、梅田から三宮、三宮からフェリーターミナルへ。
荷物は重くても楽しみが待っているから楽しくて仕方ない。

 当然のことながら船室は一番安い二等和室。バス・トイレ共同の雑魚寝の部屋だ。
出航して間もなくは船内をあちこち見物してまわったり、船からの景色を楽しんだりしてよかったが、
問題は夜であった。

 安い船室=よく揺れる、私はもののみごとに酔ってしまい、
2日目の昼にはもう乗っているのがいやでいやでたまらなかった。
360℃海しかみえない景色も辛かった。
また、そういうマイナスモード全開の時には他人の所作が一つ一つ気になって仕方ない。
このときにはまだ帰りに飛行機を利用することは考えていなかったが、
二度と船は利用しないぞ、とはココロに誓っていた。

 後々友人と喧嘩してしまい、旅の最後を別行動にしたことによって
私は彼女と行動を共にする必要がなくなったので船をキャンセルして飛行機のチケットを買って大阪へ帰った。
どんなにたくさん荷物を積むことができても、私は時間をお金で買ってでも好きなように使いたいたちなので、
いまだに2泊3日の船の旅を楽しもうという気にはなれずにいる。

 ゆえに今回の引越しの際も飛行機でやってきたのだった。

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