+--[20] 疑 い--+

 1989年といえば、上海の日本総領事館の前に査証発給を求める中国人の人だかりの映像でおなじみの
「出国熱」がヒートアップしていた時だった。
そんなときに日本人に声をかけてくる人なんてろくなもんじゃない、と思うのが正解の頃でもあった。

 多くの日中カップルとは違って、私もえんちゃんも留学生ではない。

 二人が出会ったのは上海の外灘。私が帰国する前日のことだった。

 私と旅友は”北京事件”以降何となくぎくしゃくしていたのだが、
それでも最後の地上海を楽しんで帰ろうと、黄浦江の遊覧船に乗る待ち合わせをして別行動をとった。
その時泊まっていたのはYMCAで、西蔵南路にあった。
この近くに沐恩堂という教会があり、87年に上海へ来たときにここのクリスマスミサに特別参加させてもらったことがあったので、
私はそこへ寄って外灘へ行くつもりだった。旅友は外灘とその周辺を観光してまわることにしていた。

 ところが、西蔵中路から外灘へ出るのに、道が渋滞でつまってしまって身動きできなくなった。
南京路よりも南にくだったところを東へ進めばよかったのだろうが、南京路に出てしまったのでどうしようもない。
私はまたもや遅れてしまい、遊覧船の時間ぎりぎりに外灘に着いた。

 その時に出会ったのがえんちゃんなのである。

 彼は数人の友人たちと日本語の勉強をしていた。
工業大学を出て配属された先に納得がいかず、幼なじみの住む日本への留学を目指していた。
旅友が外灘へ来る前に彼らに声をかけられすでに接点があった。
しかし、その時はとても急いでいたので、そのまま別れた。それで終わりのはず、だった。

 船の上で旅友のゴキゲンをなおせなかった私は下船後も別行動をとることになった。

 とりあえず土産物を買って帰らないと、と南京東路を買い物しもって歩いているうちに彼らとばったり再会した。
絶対にアヤシイ兄ちゃんたちに決まってるって、と疑いながらも、
物を買わされたり換銭を要求されたりすることが全くなかったので一緒にぶらぶらまわり、食事をした。
今と違って無邪気な笑顔を見せるえんちゃんは私より年下の高校生のようにみえた。

 いろんな話をしているうちに妙に盛り上がり、
すっかり遅くなってしまったのでホテルまで送ってもらい、再会することを約束して私たちはわかれた。
それから日記のように毎日続く手紙のやりとりが始まるが、"北京事件"の直後でもあり、
自分が日本人だから出国手段として利用されているだけなのではないだろうか、という疑いの念が頭から離れることはなかった。

 私は日本語、彼は中国語で手紙を書く。
まだ電話回線も電力も不足していた時期で、家庭電話はほとんど存在しなかったので、家の近くの公用電話に毎週末電話をかけた。
彼はとても字がきれいで、私にとって読みやすい表現で手紙を書いてくれていたので筆まめな人なんだと思っていたが、
結婚した時に実は全然手紙を書かない人なんだということを知った。

 それでも、出国のために利用されているのではないか、という疑いの念はやはり消せなかった。

次のお話は、次へ [21] 辞書と友達