+--[22] 広い家--+

 1989年の夏、私は彼の家へ遊びに行くことにした。

 私の頭の中ではとんでもない妄想が広がっていた。
住所からすると市営住宅やマンションのような集合住宅ではないようだ。
現在住んでいるのは彼と彼の両親の3人のみ。

 「上海の住宅の中では広い方」…上海の住宅事情を少しは知っているつもりだったが、
実はまったくわかっていなくて、この言葉から想像したのは、3DKから3LDKあたりの
戸建住宅だった。

 虹橋国際機場に降り立つ。
彼が出迎えに来てくれていた。
タクシーで長々走った先は、上海大厦のすぐ近く、虹口区という
「日本人租界」と呼ばれたエリアにある吴淞路と武昌路の交差したところだった。

 3階建ての家の大きな木の扉を開けると、天井が高い部屋。
そこは広いリビング兼ダイニング、その奥にちょこっと窓付きの仕切り壁が作ってあり、
その奥が主寝室、主寝室の上にロフトが作ってあり、必要に応じてはしごをわたす。
ロフトには小さな机とベッド。大きな鍵付の重厚な木の箱がいくつもあり、
そこが彼の「部屋」だった。
「箱」は何と呼ぶのが正しいのかわからないが、衣類や大切なものがいろいろおさめられている。

 下へおりて、主寝室の横の廊下を奥へ進むと、主寝室の置くにもう一つ部屋があるが、
これは鍵がかかっている。今は必要がないので人に貸しているという(私が結婚のために
再びここへ来た時に借主にあったことがある)。

 さらにその奥へ進むと、ちょっと広いスペースがあり、その横に階段がある。
2階・3階はそれぞれ別の家族が住んでいて、そこから出入りしている。
その階段にお尻を向けて立つと奥の出入り口に突き当たる直前に台所があった。
2階・3階の人たちはその台所のそばの出入口から出入りしていた。

 裏口を出るとそこは旅行中には垣間見ることのできなかった上海の人々の暮らしがあった。
細い路地が縦横無尽に張り巡らされ、洗濯物あり、碁をする人あり、麻雀する人あり、
練炭で料理する人あり、そしてトイレもあり。
ちょっと先へ進んでいくと銭湯もあった。

 「広い」ことに嘘はないが、住宅事情が極端に悪かった当時の上海と、
バブル絶頂期にあった日本とではこの「広さ」の感覚に大きな差があった。
それまで中国通を気取ったつもりはなかったのだが、
どこかでそうなっていた自分がいたんだと気付いた瞬間であった。

 上海の夏は暑い。

 ただでさえ暑がりで、夏はクーラー無しでは生活できない身なのに、
クーラーのないところへ来てしまい、おまけにトイレもないことを知ってしまったので、
内心とても後悔していた。
浦江飯店というホテルが近くにあるのだが、そこへ泊まるようにしてくるべきだったと思った。

 天井でまわる大きな大きな扇風機とロフトにある卓上扇風機が私の友となった。

 倹しい生活をする公公(えんちゃんパパ)は、
私がリビングにいると扇風機をまわしてくれるのだが、
私がちょっと物を取りに行ったりして席をはずすとすぐにスイッチを切っていた。
私がいなければそれは使わない、ということだ。

 黙ってそっとスイッチを入れてくれる公公に感謝しつつ、
はたして私は受け入れてもらえるのだろうか、という不安を拭うことができなかった。

次のお話は、次へ [23] 日本人、日本人