+--[4] 矢切の渡し--+

 国際飯店のフロントはチェックインの客やら外出客などでごった返していた。
私はその人ごみの中に入る前に本を出し、その中の言葉をつぎはぎしながら
「有没有双人房間?(ツインルームはありますか?)」
「房費一天多少銭?(一泊いくらですか?)」
「我要住六天。(六泊したいのですが)」
という文章を紙に書いた。

 なかなかたどりつけないフロント台。
背中のリュックが邪魔で仕方ないが、置いておくわけにもいかない。
人がつぎつぎ割り込んできてなかなかフロント係と話ができない。
やっとの思いで一番前を陣取り、紙を見せた。

 そんな苦労をよそにフロントの人は一言、
「没有(無い)」
最近ではあまり聞かれなくなったが、
中国旅行=没有との闘い というのは外国人にはあまりにも有名な話だった。

 ここで日本ならば、
「お客様申し訳ございません。三日だけならご用意できるのですが。」 などと、
別条件を提示してくれたりするものだが、そんな配慮のかけらもない。
いったんあきらめて外へ出ようかと思ったが、
「どうする?どこへ行ってもホテルは満室だって言ってるよ。」
大学生のバックパッカーの声だ。

 これはいかん、この先ホテルに泊まれる保障はない。
それに和平飯店まではもう歩けない。
当時、外国人は外国人専用のホテル、中国人は中国人専用のホテル、と
宿泊できる施設が限定されていた。
路地裏の「○○旅社」といったところには泊まることはできない。
ましてやホームステイなんて有り得ない。

  仕方ない、もう一度挑戦だ。
一番下に書いた「六泊」を消して
「我要住!(ここに泊まりたいねんっ!)」
フロントのお姉さんは嫌そうに、
「One day only.」と言って泊めてくれた。
なぜシングルルームを要求しなかったかというと、
個人旅行が認められていない外国人が泊まるホテルに一人部屋は必要ないため
造られていなかったからだ。
調べてみればこの当時でもすでにあったかもしれないが、
到底私が泊まれるようなところでは なかっただろう。
記憶が確かならこの時の宿泊費55元(1元≒100円)、
一部屋いくらの計算だったので、誰かと泊まることができれば安く済んだのだが、
とにかく一晩泊まることができることになった。

 部屋に入って部屋の写真なんぞをぱちぱち撮り、 大阪の家へ電話をかけた。
しかし、翌日からの宿がない。
とにかく朝チェックアウトをして、和平飯店そばのCITS(中国国際旅行社)へ行き、
日本語のガイドさんを1日雇って、観光とホテル確保を目指そう、そう決めた。

  翌日、早速段取り通りに進めていく。 すべては順調だ。
玉佛寺(Yufosi)、豫園(Yuyuan)、魯迅公園(Luxun Gongyuan)とまわっていく。
しかし、世の中そんなに甘くはない。
日本語ガイドという冠をつけていても、
実はそんなに日本語の語彙を習得しているわけではない。
おまけにサービス精神のかけらもないから態度は高圧的。
一番大事なことが約束(したはず)通りにはいかなかった。

 夕方、私はホテルを回って宿泊場所を確保するつもりだったが、
なんとそのガイドは浦江飯店のフロントと上海大厦のフロントで1回たずねただけで、
「上海中どこのホテルへ行っても部屋はありませんよ。
日本人がいる宝山へ行けばあるでしょう。」と言い放ち、
さっさと帰って行ってしまったのだ。

 宝山までタクシーで30分(と言われたが本当かどうかはわからずじまい)も
移動するならもう野宿でもいいやっ!と 私は野宿する覚悟を決めた。
といっても和平飯店のロビーで一泊だから、結構なものだ。
だが、時間が過ぎ、寒さが足元から襲ってくる。
ジャズバーからはオールドジャズが流れだし、 ロビーに日本人の子供の姿が見え出すと
私は無性に悲しくなり、また腹がたってきた。
あんな子供に部屋があって、私にはないのか、と。

 そこで私はホテル探しを続行することにした。

 当時のタクシーは流しを道で拾うことができなかった。
ホテルなどの主要な施設でタクシーを呼ぶのだ。
幸い今は和平飯店のロビー。すぐにタクシーを手配して
本に載っているホテルをかたっぱしからあたっていく。 が、あえなく惨敗。
本当に上海中のどのホテルもだめなのかなあ、とあきらめかけていた時に
出会ったタクシーの運転手さんに私は救われることとなる。

 そのタクシーの運転手は妙に愛想よしで、
私が日本人だとわかると 「ワタシ、ワタシ」と言う。
私はこれを「我」のことだと思っていたが、実はそうではなかった。
歌が流れ出した。 聴いたことの有るメロディー、あれ?
これって、細川たかしの♪矢切の渡しでしょう!
そう、この歌が大好きな運転手さんは日本びいきで私を大事に扱ってくれた。

  私は言葉をつぎはぎしながら紙に書きもってホテルを探し続けていることを説明した。
彼はこれにつきあってくれた。しかし、ホテルはない。とうとうだめかな、と思っていたら、
友達が勤めているホテルがあるから、そこへ行こう、と連れていってくれることになった。
今思えばコワイ話である。このままどこかへ連れて行かれもわからないのだから。

 どんどん空港の方へ走っていくのだが、夜の道は街灯も暗くてよく見えない。
アヤシイ暗がりを走り続けた先にそのホテルはあった。

 龍柏飯店(Cypress Hotel)。80余元もする高いホテル。
しかし、ここも一泊のみで連泊することはできなかった。
それでも一所懸命交渉してくれた彼に感謝だった。
彼はさらに翌日もホテル探しにつきあってくれるという。
午後ににホテルで待ち合わせすることになった。とりあえず休んだ。

[5] 素敵な洋館 へ続く。