上海燕樂堂

イツモココロニタイヨウヲ

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帰国準備

昨年の予定では、今月一時帰国するつもりだった。

昨夏胃潰瘍で入院生活を過ごしてからの父は、
入院によってスイッチが入ったのか、
そういう時期だったのか定かではないが、
認知症の症状が少し出始めていたし、
以前ほど気力を感じられなくなっていた。

そもそも人の言うことをおとなしく聞く人ではなかったが、
煙草を吸ったりおやつを食べた痕跡を
小さな子どもが大人に見つからないようにするかのように隠してみたり、
日にちや曜日、時間などを確認してくることが増えていた。

一時は不要となったインシュリン注射も再開せねばならない状態になり、
12月には糖尿病の教育入院をした。
そこで脳血管性の認知症を発症しているらしいこともわかった。
本格的に上海と大阪を往復することも考えなければならないだろうと
頭の片隅で考えるようにもなった。

その後、けびが12月末から約1か月日本に滞在して、
そのほとんどを大阪の家で過ごし、
老人二人の家を賑やかにしてくれたし、
父の状態も落ち着いているようだった。

今後についての長期展望での話し合いは必要だったが、
3月は上海の家を空け辛い状況になっていたので、
結局5月頃まで帰国を延ばすことにした。
父の死はその矢先の出来事だった。

思えば、2月の末、母が「けびがメルボルンへ帰る前に」と
Skypeでビデオチャットをした時に、少しだけ父も参加して、
こちらもけびだけではなく公公も呼んで4人で挨拶しあったのが
私が見た最後の父の姿だった。

今月の始め、ちよちよの誕生日にハッピーバースディーの歌を
電話で歌ってくれたのを聴いたのが、最後の父の声だった。

誰かの誕生日に電話をかけてきて
開口一番ハッピーバースディーの歌を歌ってくれるというのが、
数年前からの父のお楽しみだったが、
ここ1、2年はごぶさたになっていた。
その再開を嬉しく思ったのに、まさかそれが最後になろうとは
思いもよらなかった。

予定通りに帰国していれば、結果は違っていたかもしれない。
いや、少なくとも最期には立ち会えたかもしれない。
そんなこんなの後悔が頭をもたげるが、今さら何を言っても仕方ない。

とにかくいったん月末まで滞在することにして家の中の段取りをし、
今月予定していたことに関わりのある人たちにのみ連絡を入れた。

なんやかんやで昨日の夜まで便探しを手伝わされていたのに、
結局けびの動きが一番はやく、現地時間では13日だが、
北京時間の今日のうちにけびがメルボルンを出発することとなった。
香港で乗り換えて大阪入りするらしい。
香港まで行く便名は連絡をくれたが、
そこから乗り換えて大阪へ行く便を教えてくれていないから、
何時に関空着なのかわからない。本当に困ったヤツだ。

ナイアガラさんとちよちよのチケットは、
金曜の株および授業終わりで出発できるように遅い便を手配した。
時期が時期なもので、ビジネスクラスよりエコノミークラスの方が
料金が高いという逆転現象が起きていて、
ナイアガラさんは往復ビジネス、ちよちよは片道だけビジネスとなった。
ナイアガラさんに二人同じ便やろ?と言われていたので、
同じ便で席をとることに気をとられていたが、後でちよちよに
別の便で良かったのにと叱られる。
冷静なようで冷静でない自分。

大阪の伯父のお別れ会の時に作った黒のワンピースが
何とか着れたが、座るとボンレスハムのようだ。マイッタナ。
靴は、前回いつ履いたかが言えるぐらい滅多に履かないパンプス。
急なことなので持って帰るものは何もない。

兄弟の中で、祖父母の葬儀に参列したことがないのは私だけで
(正確には父方の祖父の葬儀に参列したはずだが、なんせ1歳にも
満たない時のことなので私の記憶にはない)
身内の葬儀に参列するのはこの年になって初めてのこと、
ネットで宗派の葬儀の流れなど確認しておく。

ナイアガラさんは公公にまだ内緒にしていて、
父の様子があまり芳しくないので、みんなでお見舞いに行くと
嘘をついたらしい。
そこで公公が私に父の容態をたずねてきた。
私は嘘をつけず、父が亡くなったことを話した。
当然のことながら公公はショックを受けていた。
公公は80歳、父は75歳、年寄りとはいえ自分より若い人間が
先に旅立つというのを耳にするのはやはり重いものがあるだろう。
それに公公はいつも父に感謝してくれていて、
はやく上海に呼べといつも口が酸っぱくなるほど私に言っていた。
それが叶わなかったことも悔しく思ったのだろう。

いずれにせよ先へ進むしかない。
明日の夜は大阪だ。
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