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tsubakuron |
うだうだ | Thursday 13th March 2014
今までこんな気の重いフライトを経験したことはなかった。
2009年、大阪に帰省してすぐに婆婆が亡くなり、
上海へとんぼがえりしたことがあったが、
その時はけびちよを連れていたので、気の張り方が違っていた。
父は家から歩いて10分弱ほどのところにある斎場で眠っている。
一昨日の朝からいろいろなことが慌ただしく進んでいっていた。
湯灌の儀を経て、父は一張羅の大島紬を着せてもらったという。
夜、関空に着いてすぐに大阪の家へ電話をかけるが誰も出ない。
父のところへ行ってるんだな、そう思った。
母だけでなくみんなが交替で父の傍にいてくれてありがたいかぎり。
目の前に出発直前の空港バスが停まっていたが、
定員いっぱいになり断られてしまった。
次の便で梅田へ向かうことにする。
待っている間にもう一度電話をかけるが出ない。
まだ帰ってないのかな。
携帯電話にかけてもよいのだが、
もし誰かと大事な話をしているところだったりするといけないので、
あえて家の電話を鳴らし続けた。
いよいよバスが出発するという時、
さすがにもう帰っているだろうと、もう一度鳴らしてみると、
とても低い声で不機嫌なけびが出て来た。
まだ「夜中」の時間にもなっていないのに、
「みんな寝てるやろ」といきなり叱られた。
いくら疲れていても、この時間にはまだ寝ていないと思うんだけど、
で、みんなって誰?
他にもみんなで家で休憩がてら雑魚寝でもしている?
いやー、そんなはずはないって。
遅い時間だったので、梅田から家までのバスはもう終わっていて、
私はJRで一駅、最寄りの駅まで移動して、駅前からタクシーに乗った。
ワンメーターだが、夜遅くにスーツケースをカラカラいわせて
歩くわけにはいかないので、そこは楽させてもらう。
家に着いたら母が待ってくれていた。
電話の話をすると母は大笑い。
私が電話した時、母はたしかに父のところにいた。
それもちょうど私が電話をかける前に家を出て、
私が最後に電話をかけた後に帰って来たのだった。
寝ていたのは「みんな」ではなく「ボク」だけだった。
「まだ入れてもらえると思うからじいちゃんに会いに行く?」
と聞かれたが、この3日間、斎場と家と会社を何度も往復している母を
また往復させるのもどうかと思ったし、明日の納棺の儀には出るから、
父に会いには行かなかった。
会うのが怖いと意識したわけではなかったが、
でもどこかで現実と対峙するのが怖かったのかもしれない。
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tsubakuron |
うだうだ | Wednesday 12th March 2014
昨年の予定では、今月一時帰国するつもりだった。
昨夏胃潰瘍で入院生活を過ごしてからの父は、
入院によってスイッチが入ったのか、
そういう時期だったのか定かではないが、
認知症の症状が少し出始めていたし、
以前ほど気力を感じられなくなっていた。
そもそも人の言うことをおとなしく聞く人ではなかったが、
煙草を吸ったりおやつを食べた痕跡を
小さな子どもが大人に見つからないようにするかのように隠してみたり、
日にちや曜日、時間などを確認してくることが増えていた。
一時は不要となったインシュリン注射も再開せねばならない状態になり、
12月には糖尿病の教育入院をした。
そこで脳血管性の認知症を発症しているらしいこともわかった。
本格的に上海と大阪を往復することも考えなければならないだろうと
頭の片隅で考えるようにもなった。
その後、けびが12月末から約1か月日本に滞在して、
そのほとんどを大阪の家で過ごし、
老人二人の家を賑やかにしてくれたし、
父の状態も落ち着いているようだった。
今後についての長期展望での話し合いは必要だったが、
3月は上海の家を空け辛い状況になっていたので、
結局5月頃まで帰国を延ばすことにした。
父の死はその矢先の出来事だった。
思えば、2月の末、母が「けびがメルボルンへ帰る前に」と
Skypeでビデオチャットをした時に、少しだけ父も参加して、
こちらもけびだけではなく公公も呼んで4人で挨拶しあったのが
私が見た最後の父の姿だった。
今月の始め、ちよちよの誕生日にハッピーバースディーの歌を
電話で歌ってくれたのを聴いたのが、最後の父の声だった。
誰かの誕生日に電話をかけてきて
開口一番ハッピーバースディーの歌を歌ってくれるというのが、
数年前からの父のお楽しみだったが、
ここ1、2年はごぶさたになっていた。
その再開を嬉しく思ったのに、まさかそれが最後になろうとは
思いもよらなかった。
予定通りに帰国していれば、結果は違っていたかもしれない。
いや、少なくとも最期には立ち会えたかもしれない。
そんなこんなの後悔が頭をもたげるが、今さら何を言っても仕方ない。
とにかくいったん月末まで滞在することにして家の中の段取りをし、
今月予定していたことに関わりのある人たちにのみ連絡を入れた。
なんやかんやで昨日の夜まで便探しを手伝わされていたのに、
結局けびの動きが一番はやく、現地時間では13日だが、
北京時間の今日のうちにけびがメルボルンを出発することとなった。
香港で乗り換えて大阪入りするらしい。
香港まで行く便名は連絡をくれたが、
そこから乗り換えて大阪へ行く便を教えてくれていないから、
何時に関空着なのかわからない。本当に困ったヤツだ。
ナイアガラさんとちよちよのチケットは、
金曜の株および授業終わりで出発できるように遅い便を手配した。
時期が時期なもので、ビジネスクラスよりエコノミークラスの方が
料金が高いという逆転現象が起きていて、
ナイアガラさんは往復ビジネス、ちよちよは片道だけビジネスとなった。
ナイアガラさんに二人同じ便やろ?と言われていたので、
同じ便で席をとることに気をとられていたが、後でちよちよに
別の便で良かったのにと叱られる。
冷静なようで冷静でない自分。
大阪の伯父のお別れ会の時に作った黒のワンピースが
何とか着れたが、座るとボンレスハムのようだ。マイッタナ。
靴は、前回いつ履いたかが言えるぐらい滅多に履かないパンプス。
急なことなので持って帰るものは何もない。
兄弟の中で、祖父母の葬儀に参列したことがないのは私だけで
(正確には父方の祖父の葬儀に参列したはずだが、なんせ1歳にも
満たない時のことなので私の記憶にはない)
身内の葬儀に参列するのはこの年になって初めてのこと、
ネットで宗派の葬儀の流れなど確認しておく。
ナイアガラさんは公公にまだ内緒にしていて、
父の様子があまり芳しくないので、みんなでお見舞いに行くと
嘘をついたらしい。
そこで公公が私に父の容態をたずねてきた。
私は嘘をつけず、父が亡くなったことを話した。
当然のことながら公公はショックを受けていた。
公公は80歳、父は75歳、年寄りとはいえ自分より若い人間が
先に旅立つというのを耳にするのはやはり重いものがあるだろう。
それに公公はいつも父に感謝してくれていて、
はやく上海に呼べといつも口が酸っぱくなるほど私に言っていた。
それが叶わなかったことも悔しく思ったのだろう。
いずれにせよ先へ進むしかない。
明日の夜は大阪だ。
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tsubakuron |
うだうだ | Tuesday 11th March 2014
早朝、家の電話が鳴った。
鳴っていたことはわかっていたが、
カラダが言うことを聞いてくれなくて
夢うつつのまま、その音をやりすごした。
我が家の固定電話にかかってくる電話のほとんどは、
ナイアガラ公司でこの番号を使用していた時代の情報を元に
送りつけられてくるFAX。
真夜中の場合は、公公が目を覚まさないようにと、
私が電話をとって切るのだが、時間は早くてももう朝だ。
用事のある人はそれぞれの携帯電話にかけてくるので、
特に気にはしていなかった。
それから30分ぐらいは経っていただろうか、
いや、もっとかもしれない。
私の電話が鳴った。
大阪の妹からだった。
「もしもし、姉ちゃん?」
その声だけで、早朝の電話のことを理解した。
妹は何も言わなかった。
私が固定電話に出なかったことの確認と、
「ばあちゃん(母)に電話して」
ただ、それだけだった。
すぐに大阪に電話をかけて母に謝る。
そして父が逝ったことを確認した。
「俺」らしい突然の旅立ちは、
大阪の家族に泣く隙も与えず、
その時を迎える覚悟なんてこれっぽっちも無かったので、
後の段取りにあたふたしている状態だった。
いつまでに帰って来られるかと聞かれ、
とにかく週末までには、と答え、
いったん電話を切った。
普段の起床時間より少し早いがナイアガラさんのところへ行き、
父のことを伝えた。
彼は言葉を失ったまま天を仰いでいた。
とりあえず公公には知らせるなと口止めされた。
ちよちよには知らせたのか?と言われたのでまだだと答えると、
ちょっとの間知らせない方がいいかもと言われる。
とにかくけびには知らせておこうと微信で連絡を入れる。
しかし、けびとのやりとりはグループチャットになっていたので、
自動的にちよちよにも通知がいくため、
それを読まれてしまう前に電話を入れることにする。
けびはすぐに返事をよこして来た。
そして自分も葬儀に参列したいので、日程が決まったら知らせろと言う。
上海からメルボルンへ戻ってまだ2週間足らず。
新セメスターも始まったばかりだし、1か月日本に滞在していたのだから、
行かなくてもいいよと言うが、学校より葬儀の方が大事だと言い、
それぞれの日程はバラバラになるが、
公公を除く全員で葬儀に参列することにする。
ちよちよに電話で知らせると、案の定彼女は電話の向こうで号泣。
1週間前に電話で誕生祝いの歌を歌ってもらったところだった。
キミが最後にハッピーバースディー歌ってもらった孫になったよ、
でも歌ってもらえて良かったね。
嗚咽は止まなかった。
自宅で亡くなったため、父はいったん警察へ運ばれて行った。
その戻りの関係で葬儀日程が決まるとのことで、
まずは公公とナイアガラさんを送り出し、
しばらくその連絡を待った。
父の検死は想像以上に早く終わり、
もろもろが動き出した。