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うだうだ | Friday 21st March 2014
今日は春分の日。
弟夫婦が中華料理屋さんでごちそうしてくれた。
久々に落ち着いて楽しくごはん、かな。
帰りに近くの百円均一の店に寄る。
なかなか広い店で品数も豊富。
母とついつい買い物かごをいっぱいにしちゃう。
それでも線香の火を消して出て来たことが気になる。
早く帰ってお香をあげよう。
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うだうだ | Wednesday 19th March 2014
父が白がゆを食べるようになってずいぶん経つ。
入れ歯にすることにして歯を作ってもらった、
その時からだからもうどれぐらいになるだろう。
入れ歯がしっくり来ていれば、
とうにお粥生活から卒業していたのだろうけれど、
結局何度か作り直したり、まあいろいろあって、
最後の方はほとんど歯をはめていなかった。
昨夏胃潰瘍で入院してから生活に対して前向きな姿が
見受けられなくなった。
退院してからも、より体力が落ちたことと気力がなくなったこと、
加えて認知症の症状とおぼしきものがちらほら見えていたために、
会社へ顔を出すこともほとんどなくなった。
厨房に立つこともなくなった。
そのため、母が朝昼の食事を食卓に用意して出かけるのだが、
いつ父が起きて来て食べるかわからないということもあり、
もっぱらレトルトの白がゆを利用していた。
近くのスーパーで安売りをしている日があれば、
それをまとめて買って帰って来ることを知っていた。
量はしれているが、なかなか重たいし、
母は自転車に乗らないので、上海からネットで購入して
81食分を届けてもらった。
(9食入りを9箱。3箱単位での販売だったからこの数になった)
母が在宅の時に受け取れるようにと、9日の日曜日に届くように
日にち指定していた。
まさかその翌々日に父が旅立ってしまうとは思いもよらなかった。
それでも父は2食ほど食べたそうで、
まったく口にしないままというわけではなかったことが
私の中の救いだったが、洋間の入口に積み上げてある箱を見るたびに、
なーんでもっと早く注文しなかったんだろうとか、
いろんな後悔が頭をよぎった。
ある程度は非常食として保存しておいてよいが、
母にとってはそういつもいつも食べたいものではないだろうから、
私の滞在中にせっせと消費することにする。
野菜をたっぷり入れたり、チーズを入れたり、
うん、なかなかいけるんでないの。
「ばあさんにだけ、そんなん作ってやるんか」って
父が拗ねていそう。うふふ。
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うだうだ | Tuesday 18th March 2014
四十九日まではお香を絶やさず、
毎朝のお供え用の炊きたてのごはんも忘れずに。
父は朝、パンを食べたりお粥を食べていたが、
さすがにお粥はお供えできないねという話になり、
一人分を炊くことのできる陶器で毎朝母がごはんを用意し始めた。
しかし、この水加減がなかなか難しく、
「今日は入れ歯はめて食べてね」などと言いながら供えたり。
そしてその残りは私が美味しくいただくわけだが、
ははは、たしかにかたいよ、コレ。
なーんて言いながら昨日今日と実験状態。
何日目に納得いく仕上がりになることだろう。
実家にある炊飯器は、ガス炊きで大きい。
ガスで炊いたごはんは美味しいが、
釜が大きいため少量を炊くのは美味しくない。
1合でも炊けるという炊飯器を買うことにしようと
ネットで注文を入れる。
在庫がある店を選んだはずなのに、結局取り寄せになるようだ。
マイッタナ。
今日はいっけぴょんの小学校卒業式。
妹が「じいちゃんに卒業した姿、見てもらいたかったな」とぽつり。
だんだんこういう風に思うことが増えて来るのかな。
母の留守中に天王寺の伯母から電話。
2時間ぐらい話をしたような気がする。
父の話に始まって、祖父母の話、私が気になっていたカレーライスの話、
満中陰法要や納骨の話などなど。
伯母は伯父が亡くなった後、昼間一人になるのがとても辛かったと言った。
夜は従兄たちが帰ってくるから賑やかになるが、
とにかく昼間が辛かったと。
だから母がまだ仕事をしていて良かったと言った。
だが、私が上海へ戻ってしまうと、逆に母は夜一人になってしまう。
昼の一人も辛いだろうが、夜の一人の方がもっと辛いのではないかと
勝手に想像してしまう。
疲れてバタンキューで眠ってしまえればいいのかもしれないが。
今はそれぞれが自分の空間、自分の時間を大切にしたいと思う時代で、
「おひとりさま」も寂しいものではないようだが、
煩わしさがあったとしても、人はなるべく一人ではなく、
誰かと共に暮らすのが良いのではないか、そんなことを考えた。
そう、お供えするごはんの炊き上がりがイマイチな時、
そのことを笑いながら共有できるって、やっぱりいいよね。
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うだうだ | Monday 17th March 2014
早いもので今日はもう初七日。
初七日の法要は葬儀式の後に行ったので、
今日は特別なことはしないが、
父はどんな流れの川を渡ると決まるのだろう。
最初に大阪入りしたけびがメルボルンへ帰る。
今回往復するのに利用したキャセイパシフィック、
彼はずいぶん気に入ったようだった。
今回も香港で乗り換え、アデレード経由。
私は、いただいた香典の整理とデータ入力。
昨夏母に買ったPC、Officeが使えるようにと選んだはずだったが、
いざ使おうとOfficeを探すとどこにも無い。
シマッタ、入っていたのは互換ソフトでそれも無償は30日間だけ。
とにかく使える間に作業しよう。
それにしてもOfficeって買おうと思うと高いよね……。
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うだうだ | Sunday 16th March 2014
昨日斎場から戻り、家に祭壇を作ってもらってひといきついた後、
ナイアガラさんとけび、そしてちびっこたちは梅田へと
くりだして行った。
普段食事にこだわりを持たないナイアガラさんだが、
それでも好きなものは当然あるわけで、
大阪での彼のお気に入りは、
最初に勤めた本町の商社が入っていたビルの食堂の
さんまの塩焼き(もしくはさばの塩焼き)定食、
そして阪神百貨店地下2階・フードテリアのとんかつ。
カツ丼好きの彼は、梅田でカツ丼を食べたかったのだ。
しかしまあ、人間の記憶なんてテキトーなもので、
彼が最後にフードテリアに行った時は私が一緒だったから、
自分の頭で確認しながら歩いたわけではなかったわけで、
何故か阪神へ行かずに大丸の地下へ行ってしまった模様。
けびから確認の電話がかかってきた。
まあ、いろいろありつつも美味しく食事をして、
ちびっこたちには何やら買ってやったらしく、
後日弟からしんちゃんが買ってもらったガンダムを
大切にしているという話も聞いた。
たまにおっちゃんするのもええよね。
そうやってちょこっと梅田も楽しんで、
ナイアガラさんとちよちよは今日上海へ戻る。
ちよちよは、金曜の夜で懲りて、
もう一緒に飛行機に乗るのはイヤだとぼやいていた。
金曜はナイアガラさんがビジネスクラスで
ちよちよはエコノミークラスと、
同じ便でも席が離れていた(にも関わらず、
アイスクリームを席まで持って来てくれたり、
年頃のムスメには相当ウザイ親父だった模様)が、
戻りは二人ともビジネスクラス。
ちよちよが頭を抱えるのもわからなくはない。
ま、それがあなたのお父ちゃんなんだから、しっかり受け止めて。
夜、ナイアガラさんから微信で写真が送られて来た。
ちよちよが食事をしているところ、カメラを向けられて
とても不機嫌そうだ。
他にも何枚か写真が届いて、
ちよちよの機嫌が相当悪かったであろうことは容易に想像できた。
ふと、子どもの頃のことを思い出した。
父と出かけていると、父が誰にでも気さくに声をかけて、
その場で話に花を咲かせていたことを。
あれはやっぱり年頃の娘にはちょっと恥ずかしいのよ。
今なら一緒に話の輪に参加していただろうけどね。
いつかきっとちよちよの中でもこの時のことが
いい想い出になる日が来るよ、目を細めて懐かしく思う日が来るんだよ。
それがいつなのか、と問われても答えられないけどさ。
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うだうだ | Saturday 15th March 2014
一夜明けて葬儀式の時間が迫ってきた。
上海では滅多にスーツを着なくなったナイアガラさん、
真っ黒のスーツが無くて、仕方なく
数年前にちよちよがJCIDのクリスマス会のステージで着た
安物のジャケット(それも淘宝網で80元!)と、
黒のスラックスを持って来たが、
父が昔誂えたダブルの黒のスーツがちょうど良くて
(正確には父の方が腕が短かったらしく、袖が若干短かった)
それを着てもらうことにした。
ちよちよはちよちよで、服がなかった。
なんせ上海では日本のように
厳格に定められているものがあるわけではなく、
婆婆の時も急遽カジュアルな黒のワンピースを買って参列した。
日本ではそれは使えないので母の昔着ていたものを
引っ張り出してもらい、靴は妹から借りた。
けびは以前大阪で母に買ってもらったスーツを着た。
メルボルンで音楽会などに行く時にスーツが無くて困ると言ったら
母が買ってくれたらしい。
昨日今日と慣れないパンプスで足が辛い。
今日は斎場までは普通の靴で移動して、中で履き替えることにした。
葬儀式では、米子からかけつけてくださった父の親友が
昨日突然お願いしたにもかかわらず、
素晴らしい弔辞を述べてくださった。
その中で、小学時代のエピソードが出て来た、それが印象的だった。
仲良し4人、それぞれの誕生日にそれぞれの家でカレーライスを
作ってもらい、それをみんなで食べたという話。
この話は父から聞いたことがなかったので、
いったいどんなカレーだったのだろうかと気になった。
知っていたら再現して一緒に食べてみたかったな、そう思った。
今日もたくさんの方々に来ていただき、無事に式を終えることができた。
火葬場(市営斎場)は車で少し移動したところにあり、
いったんそこへ移動して、父の肉体と別れを告げた。
骨上げまでの時間、また斎場へ戻って食事。
昨日は従姉に声をかけられた時に泣いてしまったが、
今日は叔母たちからの質問に笑いながら答えられる自分がいた。
骨上げの時間になって再び火葬場へ。
職員の方がそれはとてもとても丁寧に説明してくださり、
骨だけになった父と対面した。
長年糖尿病を患い、多々不摂生な生活をしていたにもかかわらず、
父の骨はとても立派で、きれいに横たわっていた。
それぞれの骨の部位や色についての説明を受け、
足もとから順番に骨上げしていく。
きれいに収まるように心砕いていただき、骨上げの儀式は終わった。
棺ギリギリにおさまっていた父の体は、
手で抱えて持つことのできる骨壺の中に骨となっておさめられた。
もちろんすべての骨を壺の中におさめたわけではないが、
本当に小さくなってしまった。
目を閉じたまま、もう話しかけてくれなくなった父の姿を見た。
間違いなく私は父の骨を拾った。
それでもまだなお、実感がわかなかった。
長い間看病したり、同居していたところからの別れなら、
もっと違う感情が生まれていたのかもしれないが、
大阪を離れ上海に定住して12年、突然旅立った父との別れは、
夢を見ているようなそんな感じだった。
決して父の死を受け入れたくない、認めたくないと
思っているわけではなく、ただただ実感がわかない、
それが今の正直な気持ち。
本当に父はもういないのだと実感するのは、
いつのことなのだろう。
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うだうだ | Friday 14th March 2014
一夜明けて今日はお通夜。
その前に納棺の儀があり、午後に一度斎場へ向かう。
会場は新しくてきれいなホール。
大きな道に面していて、とても立派な看板がかけられていた。
(どのような看板になるかは、事前打ち合わせでは
把握していなかったようで、母も弟も妹も現物を見て驚いていた)
上海に定住するようになってから滅多に会うことのない親戚との
久しぶりの再会がこの席とは、何とも言い難い気分。
そして父との対面。
そもそも父は比較的背の高い人ではあったが、
用意していただいた棺の上下にほとんど余裕がなかった。
(その棺におさまらなければ、特注になっていた模様)
この数年、何度か入れ歯を作り直していたが、
面倒くさがってほとんどはめていなかったので、
普段見る顔は、やせ細った上に口元がしわくちゃの、
私が幼い頃によく描かれていた「お爺さん」のようだったが、
目の前に眠っている父は、少しふっくらしていて
大島紬がよく似合っていた。
顔を見た瞬間はこみあげてくるものがあり、
何度も心の中で「ごめんね」とつぶやいていたが、
時間が経ってくると、その姿が
なんだかマダム・タッソーの蝋人形にも思えてきた。
いったん帰宅して着替えて荷物をまとめて再び斎場へ。
着くと、みんなが山のような弔電を仕分けしていた。
今回葬儀を会社との合同葬とするにあたって、
香典を辞退することにした。
そのため、刺しゅう電報やうるし電報はもちろんのこと、
線香セットやプリザーブドフラワーのついた電報まで大量に届いて、
五十音順に仕分けするだけでも大仕事。
大変ありがたいものの、どうやって保管する?などと、
先のことを想像してしまった。
供花の数も斎場の方が驚かれるほど多くて、
にぎやかに送り出すことができることに感謝した。
通夜式が始まると、会社関連の参列者の方々の中に、
懐かしい顔をたくさん見かけた。
当たり前だが、みんな年をとっていた。
遠くからかけつけてくださった方も少なくなく、
会場は人であふれていた。
式を終えて食事の時間になり、ようやく電話に目をやると、
ナイアガラさんとちよちよが乗るはずの飛行機が、
まだ浦東機場に到着しておらず、
出発時間のメドが立たないと連絡がきた。
食事の後も、遅くに弔問に来てくださる方をお迎えするために
何人かで斎場に残り、弔電の整理や告別式の準備などしていた。
日付が変わってから家の鍵をあけなくてはならないので帰宅するも、
結局ナイアガラさんたちが家に着いたのは1時をまわってからだった。
斎場は24時間開いているので、父に会いに行ってもらってもよかったが、
とにかく休んでもらうことにする。
行動自由な父親と二人きりで長時間過ごしたムスメは
ゴキゲンナナメもナナメ、ぷんすか噴火モードで愚痴る愚痴る。
二人一緒の便で無くてもよかったやんと叱られる始末。
おかーさん、チケット手配の時、そこまで頭まわってませんでしてん。
ごめんよー。
もう久しく家族4人揃って大阪に滞在するということをしていなかった。
いつもけびちよと私、もしくはナイアガラさんと私という組み合わせだった。
それがこんなカタチで全員揃うとは。
ちょっとフクザツな気分だったが、揃うことができて良かったとも思った。
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うだうだ | Thursday 13th March 2014
今までこんな気の重いフライトを経験したことはなかった。
2009年、大阪に帰省してすぐに婆婆が亡くなり、
上海へとんぼがえりしたことがあったが、
その時はけびちよを連れていたので、気の張り方が違っていた。
父は家から歩いて10分弱ほどのところにある斎場で眠っている。
一昨日の朝からいろいろなことが慌ただしく進んでいっていた。
湯灌の儀を経て、父は一張羅の大島紬を着せてもらったという。
夜、関空に着いてすぐに大阪の家へ電話をかけるが誰も出ない。
父のところへ行ってるんだな、そう思った。
母だけでなくみんなが交替で父の傍にいてくれてありがたいかぎり。
目の前に出発直前の空港バスが停まっていたが、
定員いっぱいになり断られてしまった。
次の便で梅田へ向かうことにする。
待っている間にもう一度電話をかけるが出ない。
まだ帰ってないのかな。
携帯電話にかけてもよいのだが、
もし誰かと大事な話をしているところだったりするといけないので、
あえて家の電話を鳴らし続けた。
いよいよバスが出発するという時、
さすがにもう帰っているだろうと、もう一度鳴らしてみると、
とても低い声で不機嫌なけびが出て来た。
まだ「夜中」の時間にもなっていないのに、
「みんな寝てるやろ」といきなり叱られた。
いくら疲れていても、この時間にはまだ寝ていないと思うんだけど、
で、みんなって誰?
他にもみんなで家で休憩がてら雑魚寝でもしている?
いやー、そんなはずはないって。
遅い時間だったので、梅田から家までのバスはもう終わっていて、
私はJRで一駅、最寄りの駅まで移動して、駅前からタクシーに乗った。
ワンメーターだが、夜遅くにスーツケースをカラカラいわせて
歩くわけにはいかないので、そこは楽させてもらう。
家に着いたら母が待ってくれていた。
電話の話をすると母は大笑い。
私が電話した時、母はたしかに父のところにいた。
それもちょうど私が電話をかける前に家を出て、
私が最後に電話をかけた後に帰って来たのだった。
寝ていたのは「みんな」ではなく「ボク」だけだった。
「まだ入れてもらえると思うからじいちゃんに会いに行く?」
と聞かれたが、この3日間、斎場と家と会社を何度も往復している母を
また往復させるのもどうかと思ったし、明日の納棺の儀には出るから、
父に会いには行かなかった。
会うのが怖いと意識したわけではなかったが、
でもどこかで現実と対峙するのが怖かったのかもしれない。
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うだうだ | Wednesday 12th March 2014
昨年の予定では、今月一時帰国するつもりだった。
昨夏胃潰瘍で入院生活を過ごしてからの父は、
入院によってスイッチが入ったのか、
そういう時期だったのか定かではないが、
認知症の症状が少し出始めていたし、
以前ほど気力を感じられなくなっていた。
そもそも人の言うことをおとなしく聞く人ではなかったが、
煙草を吸ったりおやつを食べた痕跡を
小さな子どもが大人に見つからないようにするかのように隠してみたり、
日にちや曜日、時間などを確認してくることが増えていた。
一時は不要となったインシュリン注射も再開せねばならない状態になり、
12月には糖尿病の教育入院をした。
そこで脳血管性の認知症を発症しているらしいこともわかった。
本格的に上海と大阪を往復することも考えなければならないだろうと
頭の片隅で考えるようにもなった。
その後、けびが12月末から約1か月日本に滞在して、
そのほとんどを大阪の家で過ごし、
老人二人の家を賑やかにしてくれたし、
父の状態も落ち着いているようだった。
今後についての長期展望での話し合いは必要だったが、
3月は上海の家を空け辛い状況になっていたので、
結局5月頃まで帰国を延ばすことにした。
父の死はその矢先の出来事だった。
思えば、2月の末、母が「けびがメルボルンへ帰る前に」と
Skypeでビデオチャットをした時に、少しだけ父も参加して、
こちらもけびだけではなく公公も呼んで4人で挨拶しあったのが
私が見た最後の父の姿だった。
今月の始め、ちよちよの誕生日にハッピーバースディーの歌を
電話で歌ってくれたのを聴いたのが、最後の父の声だった。
誰かの誕生日に電話をかけてきて
開口一番ハッピーバースディーの歌を歌ってくれるというのが、
数年前からの父のお楽しみだったが、
ここ1、2年はごぶさたになっていた。
その再開を嬉しく思ったのに、まさかそれが最後になろうとは
思いもよらなかった。
予定通りに帰国していれば、結果は違っていたかもしれない。
いや、少なくとも最期には立ち会えたかもしれない。
そんなこんなの後悔が頭をもたげるが、今さら何を言っても仕方ない。
とにかくいったん月末まで滞在することにして家の中の段取りをし、
今月予定していたことに関わりのある人たちにのみ連絡を入れた。
なんやかんやで昨日の夜まで便探しを手伝わされていたのに、
結局けびの動きが一番はやく、現地時間では13日だが、
北京時間の今日のうちにけびがメルボルンを出発することとなった。
香港で乗り換えて大阪入りするらしい。
香港まで行く便名は連絡をくれたが、
そこから乗り換えて大阪へ行く便を教えてくれていないから、
何時に関空着なのかわからない。本当に困ったヤツだ。
ナイアガラさんとちよちよのチケットは、
金曜の株および授業終わりで出発できるように遅い便を手配した。
時期が時期なもので、ビジネスクラスよりエコノミークラスの方が
料金が高いという逆転現象が起きていて、
ナイアガラさんは往復ビジネス、ちよちよは片道だけビジネスとなった。
ナイアガラさんに二人同じ便やろ?と言われていたので、
同じ便で席をとることに気をとられていたが、後でちよちよに
別の便で良かったのにと叱られる。
冷静なようで冷静でない自分。
大阪の伯父のお別れ会の時に作った黒のワンピースが
何とか着れたが、座るとボンレスハムのようだ。マイッタナ。
靴は、前回いつ履いたかが言えるぐらい滅多に履かないパンプス。
急なことなので持って帰るものは何もない。
兄弟の中で、祖父母の葬儀に参列したことがないのは私だけで
(正確には父方の祖父の葬儀に参列したはずだが、なんせ1歳にも
満たない時のことなので私の記憶にはない)
身内の葬儀に参列するのはこの年になって初めてのこと、
ネットで宗派の葬儀の流れなど確認しておく。
ナイアガラさんは公公にまだ内緒にしていて、
父の様子があまり芳しくないので、みんなでお見舞いに行くと
嘘をついたらしい。
そこで公公が私に父の容態をたずねてきた。
私は嘘をつけず、父が亡くなったことを話した。
当然のことながら公公はショックを受けていた。
公公は80歳、父は75歳、年寄りとはいえ自分より若い人間が
先に旅立つというのを耳にするのはやはり重いものがあるだろう。
それに公公はいつも父に感謝してくれていて、
はやく上海に呼べといつも口が酸っぱくなるほど私に言っていた。
それが叶わなかったことも悔しく思ったのだろう。
いずれにせよ先へ進むしかない。
明日の夜は大阪だ。
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うだうだ | Tuesday 11th March 2014
早朝、家の電話が鳴った。
鳴っていたことはわかっていたが、
カラダが言うことを聞いてくれなくて
夢うつつのまま、その音をやりすごした。
我が家の固定電話にかかってくる電話のほとんどは、
ナイアガラ公司でこの番号を使用していた時代の情報を元に
送りつけられてくるFAX。
真夜中の場合は、公公が目を覚まさないようにと、
私が電話をとって切るのだが、時間は早くてももう朝だ。
用事のある人はそれぞれの携帯電話にかけてくるので、
特に気にはしていなかった。
それから30分ぐらいは経っていただろうか、
いや、もっとかもしれない。
私の電話が鳴った。
大阪の妹からだった。
「もしもし、姉ちゃん?」
その声だけで、早朝の電話のことを理解した。
妹は何も言わなかった。
私が固定電話に出なかったことの確認と、
「ばあちゃん(母)に電話して」
ただ、それだけだった。
すぐに大阪に電話をかけて母に謝る。
そして父が逝ったことを確認した。
「俺」らしい突然の旅立ちは、
大阪の家族に泣く隙も与えず、
その時を迎える覚悟なんてこれっぽっちも無かったので、
後の段取りにあたふたしている状態だった。
いつまでに帰って来られるかと聞かれ、
とにかく週末までには、と答え、
いったん電話を切った。
普段の起床時間より少し早いがナイアガラさんのところへ行き、
父のことを伝えた。
彼は言葉を失ったまま天を仰いでいた。
とりあえず公公には知らせるなと口止めされた。
ちよちよには知らせたのか?と言われたのでまだだと答えると、
ちょっとの間知らせない方がいいかもと言われる。
とにかくけびには知らせておこうと微信で連絡を入れる。
しかし、けびとのやりとりはグループチャットになっていたので、
自動的にちよちよにも通知がいくため、
それを読まれてしまう前に電話を入れることにする。
けびはすぐに返事をよこして来た。
そして自分も葬儀に参列したいので、日程が決まったら知らせろと言う。
上海からメルボルンへ戻ってまだ2週間足らず。
新セメスターも始まったばかりだし、1か月日本に滞在していたのだから、
行かなくてもいいよと言うが、学校より葬儀の方が大事だと言い、
それぞれの日程はバラバラになるが、
公公を除く全員で葬儀に参列することにする。
ちよちよに電話で知らせると、案の定彼女は電話の向こうで号泣。
1週間前に電話で誕生祝いの歌を歌ってもらったところだった。
キミが最後にハッピーバースディー歌ってもらった孫になったよ、
でも歌ってもらえて良かったね。
嗚咽は止まなかった。
自宅で亡くなったため、父はいったん警察へ運ばれて行った。
その戻りの関係で葬儀日程が決まるとのことで、
まずは公公とナイアガラさんを送り出し、
しばらくその連絡を待った。
父の検死は想像以上に早く終わり、
もろもろが動き出した。